春淡雪




窓際に寄せられたベッドのヘッドボードに頭を乗せて、仰け反るように窓の外を眺める。
逆さまになった視界の上方には、寝静まった里の家並み。
その屋根に向けて、下方からふわりふわりと雪が舞い昇っている。


あの雪の数をかぞえていったら、眠たくなるだろうか。


左の眼は閉じたまま、右眼だけに映る雪片をひとーつ、ふたーつ、とかぞえはじめる。
十までかぞえて、ばかばかしくなって止めた。
子供みたいだ。


子供みたいな、気持ちなのだ。


これまでにだって、眠れない夜を幾つも過ごしてきた。
でも、この気持ちは今までとは全く違う。
まるで胸の中で甘い炭酸水がシュワシュワと音を立てているようなのだ。
炭酸の泡が弾けるパチパチという微かな刺激がうずいて、眠れない。


俺の胸の中に炭酸水をそそいだひとは、柔らかな寝息を立ててぐっすり眠っているというのに。


よっこいしょ、と頭を持ち上げる。
反転していた視界が、元に戻る。
視界の上方には、さっきまで眺めていた窓。
下方には、愛しいひとの背中。
暖かな焦茶色のブランケットが、肩甲骨から下を覆っている。
呼吸に合わせて、なめらかな背中がゆっくりと上下する。


ホントにぐっすり眠ってるよ、何しても起きなさそうだ。


黒い髪をそっと撫でてみる。
呼吸のリズムは変わらない。


熟睡してるんだ。
俺の隣で。
何の警戒も無く。


胸がムズムズする。
窓を開けて、時期外れの雪空に向かって大声で叫びたいような衝動に駆られる。
胸いっぱいの甘い炭酸水に溺れそうだ。


夢じゃないだろうか。


大切なものは全て無くしてしまったと思っていたのに、気づいたら傍にこのひとがいてくれた。
揺るがぬ瞳で、大地に根を張った蒼樹のような強さで、俺の帰るべき場所を作ってくれた。


未だに信じられないのだ。
何度も確かめたのに、何度も確かめずにいられなくなる。
夢じゃないのだろうか。
朝になったら、また一人冷たいベッドの隅で目覚めるんじゃないだろうか。
あるいは戦場の簡素なテントの中で。
あるいは死臭漂う屍の山の合間で。
すべては束の間の休息にふと頭の中を掠め通った、儚い妄想じゃないのだろうか。
そう思うと、いてもたっても居られない。


眠る背中に、唇を押し当ててみる。
温かな感触に、堪らなくなる。
起こしたくない。
でも、起きて欲しい。
あの、黒く澄んだ瞳で、俺を見つめて欲しい。
教師らしく芯の通ったあたたかい声で、俺の名前を呼んで欲しい。


『イルカせんせい』


さらりとした肌に唇を押し当てたまま、声に出さずに唇を動かしてみる。


『イルカせんせい』


肩にかかる髪を指先で払いのける。


『イルカせんせ』


肩先から項に向かって口付ける。
イルカの身体の中を血液が流れる規則正しいリズムが、唇をとおして伝わってくる。
幻じゃない。
だってこのひとは、生きている。


もぞり、と肩が動く。
ふあ、という欠伸の音と共に背中が大きく持ち上がって、ふいっと下がる。


「…眠れないんですか?」


すこしザラついた声が、頬を寄せたままの背中を通して響いてくる。
この声が嗄れているのは、半分は眠りのせいだとしても残り半分は俺のせいだ。
そう思ったらまた、胸の中で炭酸が弾ける。


「イルカ先生が雪みたいに溶けて消えちゃわないように、見張ってたんです」


触れ合う身体が小さく揺れる。
ああ、笑ってる。


「溶けて消えちゃう…?それ、俺みたいなごっつい男つかまえて言うセリフじゃないですよ」


もぞもぞとイルカが寝返りを打って、未だ張り付いたままの俺の頭をポンポンとたたく。
耳の端に触れた指先までもが、温かい。


「冷えると思ったら、雪が降ってるんですねー」


よっ、とイルカがブランケットを足で蹴り上げて、俺の身体の上に被せてくれる。
足癖わるーい、と言ってみたら、イルカがへへっと笑った。
黒い瞳が煌いて、悪戯っ子みたいだ。


イルカの体温にあたためられたブランケットの中の空気は、イルカの匂いに満ちている。


昨夜ベッドに入ったときには、イルカの身体は石鹸の香に包まれていた。
でもそんな余計な香は、俺が全て舐め取ってしまった。
今イルカの身体を包んでいるのは、このひと本来の匂いだ。
微かで、やさしく、懐かしい。


「カカシさん、身体冷えてますよ」


イルカがブランケットの端を掴んで引っぱりあげる。
その肩口に、顔を埋める。
耳たぶのすぐ下に鼻先を押し当てて、胸いっぱいにイルカの匂いを吸い込む。
くすぐったいですよ、とイルカが笑う。


イルカの匂いが、俺の身体の隅々にまで染み渡る。


この匂いは、きっとずっと忘れることは無い。
何故だかそう確信する。


忘れない。
たとえこの全てが夜明けと共に消える夢であったとしても、俺はこの匂いを覚えているだろう。
そうしたら、このひとを探し出せばいいんだ。
目覚めた世界が、どんなところであろうと。
顔が思い出せなくても、声を忘れてしまっても。
この、俺の細胞に染み付いた匂いを頼りに。


「何を考え込んでるんですか?」
「ん…雪、積もるかなあ、って」
「春の雪ですからね、日が昇ったら溶けちゃうと思いますよ」


それじゃあずっと夜のままがいいな、と呟いたら、イルカが笑って背中を撫でてくれた。
愛しいひとの肩ごしに見上げた窓の外にはまだ、白くやわらかな雪が、音もなく降り続いていた。





2006.04.01



エイプリルフール限定のお話でしたが厚かましくも頂戴して参りました。
アスイルサイト様ですがなんと一日限定でカカイルサイトに変身していたのです!
それはもう悦で御座いました〜♪
樽浦様どうもありがとうございました!


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