隣人

 

 

 トン、トン、トン。

 音にイルカは持ち帰った仕事の手を止め振り返る。時計を見れば、日付はとうに変わっていた。
 ベッドの上に飛び乗り、急いで壁に向かい拳をかざす。
 トン、トン、トン。
 暫くして、壁の向こうから二回、こちらも二回。
 最後に一つずつ交互に壁を叩いて、その交信は終わる。壁を見つめたまま動かず耳を澄ますと、電灯を消す音、がさがさという恐らく布団の音。
 ああ、寝たんだとイルカは密かに微笑んで、仕事を再開させる。区切りのいいところまで終わらせ、イルカも遅まきながら就寝の支度をした。

 隣の部屋は、暫く空室だった。それが気がついたら新しい入居者が現れたようだった。里の忍びのための独身者用の集合住宅は、どんな忍びがどこに住んでいるのか、入居者同士には知らされていない。中忍から上忍までいるらしいが、私生活を守るためにも、お互い詮索をしないことが暗黙のルールとなっている。
 残業をしたある日、ほとほとくたびれて帰宅したイルカは、靴を脱いだまま暫く動けずに玄関先に座り込んでいた。すると暫くして隣の部屋のドアが開き、締まる音が聞こえた。静まりかえった室内に、隣人の生活音はよく響いた。灯りをつけ、恐らく靴を脱ぐだけの間があいて、廊下を渡る足音。イルカもその音に立ち上がり、同じように廊下を進む。水道を捻る音、水を飲んでいるのかとイルカは察する。居間の灯りをつける音、どさりと荷物を置く音…。
 隣人もこんな遅い時間に帰宅したのかと思うと、イルカの内心に親近感が沸いた。それ以降も、何度か隣人の音からその生活を察することがあった。
 もう寝ようかとベッドにもぐりこんだ頃に帰宅する音を聞いたりすれば、ひっそりと布団にまぎれてお疲れ様です、と呟いた。特に壁の薄い建物ではないが、何も音のない時間には、少なからず隣の音くらいは漏れて聞こえる。イルカが様々聞こえているのと同様、隣人にもイルカの生活音は響いているのだろうことは承知していた。
 漏れてくる生活音から、イルカの隣人は全く規則性のない生活、イルカとは違い日々任務をこなしているのだと知れた。受付で顔をみたことがあるかもしれないと思うと、顔も名前も何もしらない隣人なのに、イルカにとって隣人のほうが同僚よりも親しい間柄のような錯覚をしてしまう。
 壁を叩く行為は、驚くことに隣人からだった。そろそろ寝ようかと、ベッドに潜りこんだ時、不意に壁の向こうから音がした。
 コンコン。
 初めは何かが当たったのかと思い、特に気にもしなかったが、間を置いて、また壁を叩く音がした。
 コンコン。
 聞こえているんでしょう?とでもいうようなその音に、イルカは明確な意思を感じとり、慌てて返した。
 コンコン。
 聞こえてますよ、そう念じながら叩いた。
 …コンコンコン。
 すると次は三回壁を叩く音。イルカも何も考えずに同じように返した。
 隣人はそれで満足したようで、電気を消す音が隣から聞こえた。
 ---そうか、お隣さんもちょうど寝るところだったのか。
 イルカも同じくもう寝るのだと、相手に知らせるように電気を消し、布団を被った。
 それから、なんとなく就寝前には壁を叩くようになり、三回叩き、返し、二回、一回と叩く決まりになった。
 寂しい一人身のイルカには、思いがけず嬉しい交流だった。誰に話すわけでもないが、隣人がイルカと同じように、隣人であるイルカのことを気にかけていたことが嬉しく、まるで片恋の相手ができたように密かに心は浮き立った。
 同僚から「最近嬉しいことでもあったのか」なんて聞かれることはなかったが、聞かれたりしたらなんてはぐらかそうと考えるのも、少し照れくさい気分になった。

 

 よく晴れた昼、寝不足気味の目に、日差しは少々痛い。イルカは眉を顰め、だが口元には笑みを浮かべながらアカデミーの敷地を歩いていた。
「おや、イルカ先生。今からお昼ですか。」
「あ、カカシ先生。」
 会釈して、立ち止まる。
「この書類を本部に提出してから、昼です。」
 少々くたびれたような笑みは、空腹のためか。
「お疲れですねぇ、イルカ先生。」
 カカシは労うような声をかける。今まで会話らしい会話を交わしたことがないというのに、突然の親しげで優しい声音に、イルカは些か驚き、内心では首を傾げつつもカカシに合わせて笑顔を作る。
「いえ、…要領が悪いんですよ。」
「そんなことないでしょう、お話は伺ってますよ。」
「話って…なんだかなぁ。」
 苦笑し、イルカは首を傾げ、…ついカカシの雰囲気に引きずられ自分までも気を緩めてしまったことに気づき、背筋を伸ばし、ハハ、と取り繕うような笑いを浮かべた。
「ここのところ、毎晩遅いんでしょう?ちゃんと休まないと、体壊しちゃいますよ。」
「え、…」
 まるでイルカのことを知ったような口ぶりに、イルカが目を丸くしていると
「ご飯、しっかり食べてくださいね。それじゃ。」
 イルカに言葉を継ぐ隙を与えずカカシはそう言い、去っていった。ぽかんとイルカは暫く棒立ちになっていたが、はっと気づき、止めたままだった足を再び動かした。
 カカシのさりげない言葉は、もしかしたらイルカの疲れた様子を見ての推測にすぎないのかもしれない。だが言葉通りにイルカは最近仕事が忙しく、毎晩帰宅が遅くなっており、帰宅してからも持ち帰った仕事を処理しているものだから、床に就くのも遅くなっていたのは事実だ。
 ---なんか…引っかかる。
 今日まで軽い挨拶くらいしか言葉を交わしたことがないのに、言葉はそれ程砕けてはいなかったものの、カカシの態度はまるで知己のそれだった。あれが上忍の話術だと言われれば確かにそうかもしれないが、…おかげでイルカまで、引きずられてしまった。決して不快というわけではないのだが、釈然としないのは確かだ。
 う〜ん、とイルカは唸って、唇を尖らせた。
「…ま、気のせいか。」
 そう思って深く考えないことにした。

 

---

 

 真っ暗な夜空の広がる夜、少し引きずる疲れた足音。やけに間をおき鍵を差込み、扉を開く。玄関先にどすりと座り込み、深いため息。

 ---また今日も、こんなに遅い時間になってしまって。
 …壁の向こうでその動き一つ一つを聞き取る。
(はぁ〜、疲れた…。)
 聞く人もいない部屋にひっそりと響くイルカの声を、カカシは壁を隔てた部屋で聞いた。
 くたびれた足取りは昼間よりも明らかに重く、荷物を置いて、一直線にベッドの上に倒れこむ音を聞けば、今すぐにでも駆け寄ってやりたくなる。
 イルカに一番近い壁に背中を預け、響く音をその体全体で受け止める。ここ数日イルカの帰りは毎晩遅く、段々と疲れてゆく様子にカカシは内心気が気ではなかった。今朝は少しだけ、直に顔を見ようと思っただけなのに、つい声をかけてしまった。イルカの生活を知るような言葉に不審がられただろうか。こんなこと、毎日隣の部屋でその生活を伺っているなんて到底言えないが、だがこれは自分だと気づいて欲しいとも思う。…だがやはり知られたくない気持ちのほうが、今は強い。何より一番知られたくないのは、こうした煮え切らない自分の内心だ。

(はぁ〜…)
 隣からため息が聞こえた。
 カカシははっとした様子で壁を振り向き、しばし逡巡し、少し迷いつつゆっくりと、軽く握った拳を振り上げた。
 コンコン。
 俺はここにいるよ、そう思いながら壁を叩いた。
 壁の向こうで空気が動く。
 果たしてイルカは起き上がり、コンコン。
 カカシのそれよりも少し焦ったような音だった。カカシは安堵の笑みを浮かべる。
 ああ、何か声をかけられたら。今まで幾度となく思ったことが、またカカシの心中に浮かんだ。痛みを堪えるように眉間に皺が寄り、安堵の笑みは自嘲の笑みに変わる。

(あの…、こんばんは…。)
 躊躇いがちに、声が聞こえた。驚きカカシはわけもなく辺りを見回した。どうしよう、どうしよう。カカシが焦り何もできぬ間に、声は続いた。
(突然、ごめんなさい。…あの、なんていうか…ちょっと…、凄く、嬉しかったので、お礼がしたくって。…ありがとうございます。)
 切れ切れにぼそぼそと聞こえるが、カカシの耳にはきちんと届いている。返事をすべきか、だが、同じように声を出すことは躊躇われた。何せ不審なことを言ってしまったのは今日のことだ。偶然お互い隣人だったというなら何ら問題はないだろうが、イルカの生活を知っているような事を言ってしまったその日では、流石に気まずい。
(あ、スイマセン。一方的にこんな喋ってしまって。あの、聞いてくれるだけで、いいんです。)
 その言葉に、カカシはほっと胸を撫で下ろした。ごめんね、と言う代わりに壁を二つ叩いた。イルカにはどう伝わるかわからないが、彼の思うように解釈してもらって構わない。ただ、ちゃんと聞いてることが伝わればいい。
(ふふ…。)
 聞こえるか聞こえないかの、微かな笑い声。カカシの返事をどうとったかわからないが、少なくとも好意的なことは間違いない。
(ありがとうございます、…じゃあ、おやすみなさい。)
 それに返す方法なら、カカシは知っている。
 コンコンコン。
(…あっ、そっか。)
 いつものように三回、二回、一回とお互い壁を叩き、終わった。

 

---

 

 やけに照れくさい、だが嬉しい気持ちでイルカは満たされた。寝台の上に大の字に転がる。
 ---声、かけちゃった…。
 こんな浮き立つような気分は久しぶりだ。ころりと寝返りをうち、壁を見つめる。向こう側からの音は、特に聞こえない。
 疲れ果てて思わずついたため息に、労わるようなノックが聞こえたことに非常に驚き、そして、気にかけてもらったことがやけに嬉しかった。相手がどんな人かなんて、イルカは全く考えていなかった。ただ、自分は酷く寂しかったのだと思った。こんな顔も素性も知らない隣人に慰められただけで、慰められたと思っているのは自分だけで、相手は特に何の感慨もなく、ただ気まぐれに壁を叩いただけなのかもしれないというのに。
 この隣人と顔を合わせることがあれば、と願わないわけではない。顔を合わせることがあれば、関係が破綻するかもしれないという恐れもある。結局イルカはどうしたいのか決めかね、このままで、なるようになればいいじゃないかと、思うようにした。

 

 

 カカシはうるさいくらいに脈打つ心臓を手で押さえ、ふう…、と音が隣に聞こえぬようにゆっくり息を吐いた。
 昼間、話をしたばかりなのに。こんな壁越しで、顔すら見えない、声も鮮明ではないような状態で、こんなに動悸が激しくなるなんて。
 ---参ったな。
 苦笑して、顔を立てた膝に押し付ける。髪の毛をくしゃりと握りこんだ。

 壁を振り返る。この向こうには、イルカが。
 わずか数十センチ、壊そうと思えば簡単に壊せる壁なのに、きっとカカシはこれを越えることができない。イルカがどんなに辛くても、今のカカシにできるのは、この壁を軽く叩くだけだ。そうして、その存在をささやかながら主張することしかできない。
 イルカから壁越しに声をかけられても、壁が薄くなるわけでもない。いつまでたっても縮まらない、距離。

 ふと気づくと、壁越しに、微かにイルカの寝息が聞こえた。それほど時間は経っていない。そのまま疲れて寝てしまったのだろうか。
 心配になり、うろうろと辺りを見回すが、耳を済ませても聞こえるのは寝息だけで、カカシにできることは何一つない。壁を叩いてイルカを起こすことも考えたが、…そこまで自分は彼の生活に入り込んでいない。その権利もない。
 一体何をしているんだろう。いつまでこんなことを続けるつもりなんだろう。
 やがて来るだろう明日にも、カカシは何ら期待することはできなかった。

 

 

 

 

 

 

<終>

 

 

 

 

津山アオキ様よりサイト開設一周年記念のお話を頂いて来ました。どうもありがとうございました!
もう一本頂いておりますが「大人向け」作品ですので、了承して下さるかたのみここからどうぞ。


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