しんと静まった暗闇の中、里へ向かって森を駆け抜けていく。本来ならば忍びも嫌がる満月の夜なのだが今夜は薄い雲にその光が阻まれていた。
 その途中、ふと感じた気配は何やら弱っているようなもので。
 カカシは仕方なく速度を緩める。
 ――…チッ。木の葉の忍びだったら放っておけないしねぇ…。面倒くさいけどさ。
 門の外ではあるがほぼ木の葉の領域であるこの森の中で、他里の忍ならば尚更見逃すわけにはいかない。駆けていた梢から気配の元に降り立ってみれば、荒い息を吐く男が一人とおそらくは出来たばかりの屍がひとつ。男の額にはそれなりに使い込まれた木の葉の印。
「あんた木の葉の忍びだよね。弱ってるみたいだけど何…っ?」
 声を掛けた直後、男の腕あたりからブシュッと血が噴出した。カカシは一応自分の身体に噴きかからない程度に後ずさると声をかけた。
「…寫血?」
 問えば男から慌てた応えがあった。
「ああっ、すみません! かかりませんでしたかっ?」
「んー、だいじょーぶだけど。あんたこそ大丈夫なの? 毒?」
 男は破けたアンダーの袖を無造作に引き千切って火遁で燃やすとこちらに頭を下げてきた。高く結った髪が跳ねるのを何となく眺めながら、確かにもうこの辺りに敵の気配はないけれどこんなにのほほんとしていていいものかねぇと思う。
「本当にすみません」
「いや、謝んなくてもいいんだけどさ。止血、先にすれば?」
「あ、はいっ…」
 男が俯いた瞬間に僅かに雲が切れて月の光が射した。
 片腕だけ剥き出しの綺麗に筋肉の付いた上膊からつうっと鮮血が流れ落ちる。
 そしてまた雲が月を覆って闇が戻った。
 コクリ、と。
 おかしな音がしたのは自分の咽喉か。

 今日の自分の任務といえば、極秘書類の記録の為にこの左目が必要だっただけで、特別に血生臭い暗殺任務でも何でもなかった。それなのに今感じるこの高揚感は何なのだろう?
 いや、それだけではない。
 あの鼻梁を走る刀傷。
 自分はあの傷を知っている。

 気がついた時にはその腕を取って唇を押し当てていた。ジュ、と吸い上げてから舌先で傷口を探り当てるとしばらくの間その辺りをぬるりと舐めまわす。傷はたいして大きくも深くもなかったし上手く切ってある所為かそれほどの出血でもなかった。薄っすらと毒の気配がしたが自分には耐性のあるものだったから気にせず舌を這わせていく。弾力のある肌が心地いいと思った。
「なっ…!」
 男は目を丸くしてそれを見ていたがすぐに我に返り、自分の腕を掴むカカシの手を外そうと暴れ始めた。思いのほか強い抵抗に、勿体ないなと名残惜しく思いながらもカカシは腕から唇を離した。
「はいはい、暴れないの。毒みたいなモンはもう残ってないしチャクラを入れといたから傷もすぐに塞がると思うよー」
「え、ええっ? ありがとうございま…って、あのっ…!」
 混乱したまま口を開いたり閉じたり絵に描いたように慌てている、目を瞠ったままの顔を横切る一文字が大きな特徴になっている男。自分の持つ痕と比べればこの男のそれは随分と愛嬌を醸し出しているように思うが。
「あ…」
 まじまじと男の顔を見つめていると視線が真っ直ぐに返ってくる。それが少し動くと共に、差し出された人差し指がカカシの唇をなぞった。
 避けることは容易かったがなんとなくそれをせずに受け止める。
 ――この男は一体どうしたいのかと。
「血が…。汚れてしまいましたね…」
 血を拭うというには稚拙な動きだったが、己の唇から血の移った指先を惜しいと思った。
 ――…単にそういうことか。自分の血が俺を汚したことを気にしているだけか。
 覚えているなんてありえない。俺が同じことをした時には意識がなかったし、その後もこの男の眼は自分をまともに見なかった筈だ。
 そう思ったらなにやら気が抜けたというかがっかりしたというか、自分勝手な落胆の所為で相手をからかって憂さをはらしたいようなもやもやとした気持ちが込み上げてきた。
 そりゃあ、あの時の記憶も何も、この男は自分の顔をまともに認識していないのだから気付きようもないのだけれど。でも、わかっていても何故かそれが気に食わなかった。
 ――俺はちゃんと覚えているのに。
 あの雪の日、洞の中で白い顔をして丸まっていた男。そういえばあの時も毒を食らっていて、それなりに治療の成果はあったようだが寒さと体力の消耗が激しかった所為かその場に倒れていたのだった。
 ――…何度も毒を食らうってのは忍びとしてどうかとは思うけど。
 でも、その時にほんの僅か意識を浮上させた時に見せたとろりと潤んだ黒い瞳がいたく気に入ってしまったのだった。その瞳に意思をもって見つめられたいと思った。
 だが運悪く暗部での任務帰りだったから自分の名を告げることさえできずにその場を後にしたのだ。そしてその時は同じ里の人間なのだからいつだって探し出せると思っていた。が、生憎と次々に入る暗部の任務の所為で今までその機会を得ることがなかったのだ。
「大丈夫。俺は大抵の毒には耐性があるし、なんかあんたのは美味かったし」
「は? な、何でしょうかそれはっ…?」
 訳が分からないといった顔で更に慌てる男に思わず笑いが出た。朴訥そうな男が不意に見せた仕草に煽られたというのに、当の本人は欠片も気付いていない。
「あはは。あんた面白いねえ。名前は?」
「うみの、イルカ、です」
「うみのイルカ…、イルカ、ね」
「はっ」
 馬鹿みたいに真面目な返事をする男に指を伸ばした。
「さっきのさ、綺麗に飛んでたよね」
「え? あ、ああ、血ですか? 俺よくこんなことあるんで…なんか慣れちゃってるんですよね。もともと血の気も多いし…って、自慢にもなりませんね。あの、上忍の方に大変お見苦しいところを。失礼致しました」
 ひとりで一気に喋ると中忍が黒い尾を振りたてて頭を下げた。その忍びらしからぬ態度に緩んだままの顔がまだ元に戻らない。いつもなら同じ里の人間という以上の興味などあり得ない。格下をわざと貶める趣味はないが別段得るものがあるわけでもないから単純に眼がいかないのだけれども。
 それなのに何故この男がこれほど気になるのか。必要に迫られて少しでも肌を触れ合わせたせいだろうか。触れ合わせたといっても単に必要以上に冷えた身体を効率よく温めるために添い寝しただけだ。
――致したわけでもなんでもないのにねえ。
思わずクク、と笑うと怪訝そうな視線が返ってくる。
「こーいうこと、よくあんの?」
「えーと、まあ…。お恥ずかしい話ですが以前にも知らない方に助けられたりしたことあるんですよ」

「ああ、それ俺」

「は?」

「だからそれ俺なんだって。大雪ン時でしょ?」
「……あ」
「ん?」
「あんたかーーーっ!!!」
 イルカは突然大きな声で叫びながらカカシの顔をびしりと指差した。
「何なのよ? でっかい声出して」
 耳元を押さえながらカカシは眉を顰める。
「あんたそん時! 俺に悪戯しただろうっ!?」
「悪戯? 何かしたっけー?」
 あの時弱って意識のないイルカの身体を自分の体温で温めながら、暇ついでにわざとしたことを言っているのだろう。本当はちゃんと覚えているけれども反応を見たくてとりあえず惚けてみた。
「その所為で…」
 グッ、とイルカは口元を引きしめて力を込めた。
「…で?」
「その所為で、俺は! そん時付き合ってた女に、振られたんだっ!」
 顔を赤くして肩を聳やかしたイルカが力を込めて言い放つのを見ていたカカシは、突然ブフッと噴出した。
「なっ、何が可笑しいんですかっ! 人の不幸を笑うなっ!」
 怒り続けるイルカを見ながらも、ああ、あれが虫除けになったわけね〜、と納得する。あの時はちょっとした興味と悪戯心のつもりだったけれど、どうやら本当の所は少し違ったらしい。我ながらなかなか良い選択肢を選んだものだ。
 イルカの心臓の上にわざとつけた小さな痕。
 二人きりの空間で響いていた鼓動に思わず唇を寄せた名残。
 あれを見た女がいたわけだ。きっとそれを見てイルカが浮気をしたとでも思ったのだろう。それはそれで腹立たしいが思いつきでつけた痕がある意味虫除けになったとはラッキーだった。身に覚えのないイルカはさぞかし臍を噛んだことだろうが、まあ知ったことではない。虫が払えたなら自分にとっては僥倖だ。
 こちらを睨みつけ肩を振るわせるイルカに、カカシはまあまあと手を伸ばした。有無を言わさず肩を掴むとじたじたと暴れるがそこは腐っても上忍、ビクとも手を外さない。
「ま、ちょっとした行き過ぎはあったかもしれませんが責任取りますからだいじょーぶ」
「責任?」
「そうです、責任。ちゃんと責任取って嫁に貰ってあげますから」
「な…、え…っ? 嫁っ?」
「嫁です」
「ば、馬鹿にすんなっ!」
 肩を掴まれたままイルカが叫ぶが、カカシとの距離は意に反してぐっと縮まった。かなりの至近距離で見詰め合う状態になり、いたたまれずに顔を逸らしたイルカの耳元でカカシが囁いた。
「あんた今女いるの?」
「い、今は…いませんけどっ…」
「じゃあ男は?」
「…いるわけないだろっ!」
 身体を仰け反らせてイルカはもがいたが、カカシの手はやはり外れない。
 こめかみを引き攣らせ、くそっ!上忍めっ!と悪態を吐いて睨みつけてくるがカカシは逆ににこりと笑った。
「ならいいじゃない」
 しれっと言うカカシにイルカは目を瞠った。その顔が明らかに狼狽しているのがなんとも可笑しいが、それを可愛いと思ってしまう自分は。
 これはもう間違いようもなく。
「あ、言っとくけど俺別に男色家ってわけじゃあないんだけどねぇ」
「じゃあ何でそんなこと…、嫁だなんていうんですか!?」
「気にいっちゃったもんは仕方ないじゃない」
「気に……ありえねー…」
 小さく呟くイルカにカカシは笑みを深くして肩を掴む指を離した。
――いいモンみつけたねぇ。
 イルカは開放された瞬間に弾かれたようにカカシから離れ、慌てて口を開いた。
「俺、里に帰りますからっ。あの、手当てはありがとうございましたっ…」
 律儀に礼を言ってから踵を返すのを後ろから少しだけ眺め、カカシも歩きだした。
「……」
「……」
「…なんで付いてくるんですか」
「だって同じ里に帰るんだから方向は一緒じゃない」
「…では、お先にどうぞ。あなたは怪我も何もしてないんですから」
「や、お構いなく」
 そう言ったカカシを何とも複雑な顔で見たイルカは諦めたようにがくりと肩を落として足を進めた。
「まあとりあえず色々覚悟してね〜」
 耳を塞いであからさまな溜息をつくイルカの背中を見ながら、カカシもポケットに手を突っ込み背中を丸めてついていく。自然と笑みが浮かぶのは仕方ないだろう。
 何故だか嬉しくて堪らないのだから。

 いつの間にか再び差し込む光の中、二人は帰る。



END



(2006.03.02)

遅くなりましたがサイト2周年と10万hitお礼を兼ねてフリー作品とさせて頂きます。
今更「雪の痕」の続編で…っていうのも申し訳ないですが貰って下さる方いらっしゃるかしら…?(汗)
ともあれお越し下さる皆様に感謝を込めてvv 本当にありがとうございますvv





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